宇久井半島は、吉野熊野国立公園のうち海岸地域の自然環境を代表する資源を有しており、本州では珍しい南方系の動植物も見られるなど、南紀特有の豊かな自然景観を存分に味わうことができます。また、優れた風致を維持すべく「特別地域」に指定されており、今後とも適切に保護していく必要があります。
日本を代表するすぐれた自然風景地について国が指定し、管理する公園を国立公園といいます。そこに生きる動植物をはじめ、質の高い自然を保護するとともに、多くの人々がその自然から学び、自然と親しむことを目的としています。現在、北は利尻礼文サロベツから南は西表まで、全国に34の国立公園が指定されています。
吉野熊野国立公園は、三重、奈良、和歌山の3県にまたがり、紀伊半島の中央から南端にかけて細長い形で指定されています。その区域の自然は、山岳部、河川部、海岸部の3つの地域に大きく分けることができます。
また平成16年7月には、国立公園内の大峯山脈、熊野川、那智山、七里御浜海岸等が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録されました。
宇久井半島には、すぐれた自然環境とともに営んできた興味深い歴史もあります。
熊野灘に面した宇久井は、黒潮の影響を直接受ける好漁場を有しています。この好条件のもと、宇久井半島のすぐ目の前ではブリやアジ、サバを主な対象魚とした大敷網漁が行われています。昭和25年頃には、ブリの大敷網漁で中学校が建ったと言われるほど宇久井は栄えたそうです。
大敷網とは大型の定置網のことで、魚が産卵、策餌(餌をとること)のために岸近くに来遊したり、季節的に一定の水域を回遊する習性を利用して沿岸のある水域に網で囲いを作り、その中に魚群を誘導し、集めた魚を取りあげる漁法です。
大敷網の一般的な構造は、魚道を遮断して魚群の進行方向を変えさせ、網の中へ誘導するための垣網部(1)、それによって誘導された魚群を一定範囲に囲んでその行動を制限し、更に箱網に落とし入れるための囲網部(2)(運動場)、網に入った魚群を最終的にすくい取る箱網部(3)の3部からなっています。
他にもカツオやマグロを対象とした曳き縄釣り漁業(ケンケン漁業)やイワシ、アジ、サバの敷網漁業(火光利用棒受網漁業)、イセエビの磯建網漁業などが行われています。
寛文元年(1661年)に書かれた鯨に関する古文書が発見されている。(宇久井小学校百年史)
それ以前より宇久井では、鯨を捕っていたと思われる。上野山には、「鯨を発見、また沖の様子」を知らせるための監視所が二カ所あった。その伝達方法としては、「くど」で火を焚き「のろし」をあげるやり方があった。(古老の話)
宇久井の地名の由来は定かではないのですが、2・3の説があります。一説によると、「鵜飼い」が語源であるという説です。宇久井は鵜の棲息地になっていて、アユ漁を営む人が宇久井の鵜を捕らえて用いていたことから、そう呼ばれるようになったという説です。また、「フク井」の転化であるという説もあります。宇久井は北側の山地と南側の島との間に東西から吹き寄せられた砂州からできた地形であること、また「井」は集うという意味の古語であり、吹き寄せられた砂の集まりを意味しているという説もあります。ほかにも、アイヌ語に由来しているなどさまざまな説があります。
鳳凰山延命寺と呼ばれる。鳳凰(想像上の大鳥)が羽を広げた格好であることから、寺の背面全体を鳳凰という。延命寺というのは、本尊が延命地蔵菩薩であるため、本尊の地蔵菩薩は仏師の第一人者の定朝上人の作と伝えられ、当時の鍋島と旧蛭子神社の間の小岩の上に出現したものを当寺の本尊とした伝えが残っている。延命寺は、天明4年(1784年)火災にあって現在の場所に移転した。もともとはJR宇久井駅の裏山に足利時代以前に、山名修理大夫(源氏)一族の建立した寺で、その頃は五重塔、何百人も宿泊できる宿坊があったとのことである。(佐藤住職の史料)
上野山の農耕は、江戸時代から行われていた。(古老の話)宇久井地区民の貴重な野菜生産の場で、また里山的な場所として全域で農耕されていた。
今では、一部で畑が作られているだけで、ほとんどが荒れ地となり昔の面影がなくなっている。
古文書によれば、宇久井の地下(住んでいるところ)は、寺前に存在していましたが、宝永4年(1707年)の大津波に襲われ、神輿・神具一切流失。民家もほとんど流失したとのこと。それ以来、家は出見世・中芝に散住する。
そのために、地下の人たちが参拝するには遠く、また狭いことから、明治45年5月25日現在の宇久井神社へ合祀されることとなった。
昭和30年12月22日に初点灯される。船舶が安全に航行するための重要な施設で、宇久井半島のシンボル的な建物です。