日本には、北は北海道の積丹半島から、南は八重山まで、82の海域公園地区があります。それらの海域公園はそれぞれに特色を持っています。そして串本海域公園は北に位置する割にはサンゴが多くあるというのが最大の特色です。
サンゴが沢山あるということはそんなに重要なことなのでしょうか?まずサンゴとはどんな生き物なのかを説明しましょう。
動物の仲間に、刺胞(しほう)動物というのがあります。かつては腔腸(こうちょう)動物と呼んでいたもので、今でもそう呼ぶ人もいます。大抵の動物は口と肛門があって、口から食べ物を食べて、肛門から食べかすを出します。ところが刺胞動物は下等な動物で口のみがあって、肛門がありません。ですから、口から食べ物を食べて、食べかすは再び口から吐き出します。このような袋小路になった消化管のようなものを腔腸とよび、これをもつところから腔腸動物と呼ばれるのです。
ではこの腔腸動物あるいは刺胞動物は何を食べるのでしょうか。この仲間は基本的に肉食なのです。口のまわりに生えた触手で餌となる動物を捕らえて丸飲みに腔腸へ押し込みます。ところで、触手を広げているだけで、そんなに簡単に餌をとらえることができるのでしょうか。実はこの仲間は他の動物がもっていない特別の武器をもっているのです。それは刺胞と呼ばれる毒液発射のためのマイクロカプセルなのです。
刺胞は体のあらゆる場所にありますが、特に触手には密にあります。刺胞は長さが1 mmの10分の1から100分の1の小さなもので、てっぺんに刺激を受ければ中の糸が非常に素早いスピードで飛び出してきて、その先端から毒液が出ます。各々の刺胞は非常に小さく、その毒の量も少ないのですが、非常に密に分布していて、発射される刺胞の数が非常に多いので、これに刺された動物は死んだり、しびれたりして、餌として丸飲みされるのです。
このように、腔腸動物と呼ばれていた動物は刺胞をもちます。そこでこれらは刺胞動物とも呼ばれるわけです。刺胞動物は大きく2つのグループに分けられます。一つはクラゲの仲間で、もう一つがサンゴの仲間です。クラゲの仲間は基本的には同じ種でありながら、クラゲとして水中に浮いているものと、イソギンチャクのように下にくっついているものとの2つの形の生き方があり、それを交代で過ごします。一方のサンゴの仲間はクラゲの時期をもたず、下にくっついている状態しかありません。
サンゴの仲間はさらに2つのグループに分けられます。下にくっついている状態の一匹の虫をポリプと呼びますが、ポリプが8本の触手をもち、さらに各々の触手が両側に突起を持ち、一本の触手が鳥の羽のようになる、そのような触手をもつサンゴの仲間は八放サンゴ類と呼ばれ、触手が8本でもなく、そのような羽状突起がない触手をもつサンゴの仲間は六放サンゴ類と呼ばれます。
八放サンゴ類の代表的な仲間はウミトサカ類とヤギ類です。そのうち、ヤギ類は骨軸と呼ばれる骨をもっていて、この骨は我々の爪のような角質です。ほとんど全てのヤギ類の骨軸はやや固い程度で、両端をもって曲げてやると、たわむのですが、沢山あるヤギ類の科の中の一つ、サンゴ科のものは骨軸が緻密に石灰化して、大変固くなっています。このサンゴ科の種の骨軸が宝石になります。日本近海には宝石になるサンゴが3種生息しています。それらはアカサンゴ・シロサンゴ・モモイロサンゴの3種です。これらサンゴ科の種は水深100mより深いところにすんでいます。
六放サンゴ類の代表的な仲間はイソギンチャク類とイシサンゴ類です。この両類はほとんど同じ体のつくりをしていて、イソギンチャク類が骨格をもたないのに対し、イシサンゴ類が石灰質の骨格をもつという、ほとんどその点だけが違うのみです。イソギンチャク類はポリプが必ず一つずつ独立している、すなわち、単体であるのに対し、イシサンゴ類は単体のものと、群体のものとがあります。
見出しの「サンゴとは」のサンゴは正式にはイシサンゴ類のことで、イシサンゴはイソギンチャクにそっくりで、ただそれが石灰質の骨格をもったようなものであるということなのです。
イシサンゴには多くの種類がありますが、これらは生態の違いから2つのグループに分けられます。熱帯の海でサンゴ礁を造るのに一役買うグループである造礁サンゴ類(あるいは造礁性サンゴ類)と、サンゴ礁を造るのに一役買わない非造礁サンゴ類(あるいは非造礁性サンゴ類)の2つです。それぞれのイシサンゴがこの2つのグループのどちらに属するかを見分けるにはどうすればいいのでしょう。これら2つのグループはサンゴ礁造りに一役を担うか担わないかという違いだけでなく、もっと基本的な生活スタイルの違いがあるのです。
サンゴ礁という言葉は私達に南方の心地よい風景と、カラフルな海中の生物たちを思い起こさせるようです。しかし、サンゴ礁とは地形学的用語であることを忘れないで欲しいと思います。
サンゴ礁とは主としてイシサンゴ類の骨格が積み重なって、何らかの化学反応と思われる作用によって比較的速やかに岩化して浅瀬を作ります。そのような地形をサンゴ礁といいます。熱帯のサンゴ礁海域では普通このサンゴ礁という地形の表面には生きたサンゴが群落を作っています。また、サンゴ礁が隆起して、海面上に出ると、海面上の部分は陸地、すなわち島になり、このような島は隆起サンゴ礁の島と呼ばれます。従ってサンゴ礁は石灰岩でできていて、普通それが厚く積もっているので、サンゴ礁の海底をボーリングすると数十mの深さ以上に石灰岩が続きます。このように、サンゴ礁ではサンゴの骨格が積み重なって、地質年代よりもはるかに速やかに石灰岩となることが必要です。そしてこのようなサンゴ礁が見られるのは緯度でおおよそ南北30度の範囲で、日本では鹿児島県トカラ列島より南に限られます。それより北ではサンゴ礁は形成されません。試しに、串本海域公園付近のテーブルサンゴの大群落の真ん中で、生きているサンゴをハンマーで叩き割ってその下の岩を見てみましょう。テーブルサンゴが付いていた岩は石灰石ではなく、串本地方で最もありふれた水成岩であることが分かります。すなわちあんなにサンゴがあるのに、串本にはサンゴ礁がないのです。ところが、その水成岩の上には非常に被度の高いサンゴ群集が見られ、そのサンゴ群集の中や周りには、熱帯地方のサンゴ礁海域に見られるような様々な生き物が同じように豊富に生活しています。ですからサンゴを割って下の岩の性質を調べなければ、串本海域公園周辺がサンゴ礁かどうか分からないほどなのです。
串本海域公園で最も多いサンゴはテーブルサンゴです。テーブル状に広がり、ほとんど海底を覆い尽くしています。その他にも串本近海には100種を越えるイシサンゴ類がすんでいます。そして、浅い海で多く目にする、すなわち比較的沢山あるイシサンゴには褐色をしたものが多く、その色が海域では目立ちます。この褐色のもとは何でしょう。テーブルサンゴの肉の切れ端をほんの少しピンセットでつまんで顕微鏡で見てみましょう。すると、顕微鏡の視野一杯にびっしりと黄褐色をした無数の丸い球が見えます。これは褐虫藻(あるいはズークサンテラ)と呼ばれる単細胞の藻類なのです。ちょっと変です。確かサンゴはイソギンチャクと同じ仲間で、動物だったはずです。どうして動物だったはずのサンゴから植物である藻類が出てくるのでしょう。
実は褐虫藻は動物であるサンゴの肉の中に共生しているのです。褐虫藻は植物で、光合成のための色素をもっています。ですから太陽の光を受けて光合成を行い、自分で養分を作ります。作られた養分の一部は自分で使いますが、残りはサンゴがもらいます。すなわち褐虫藻はサンゴに住み家を提供してもらっている代わりに、サンゴに家賃として自分の作った養分の一部を支払っているのです。両者は助け合って生きている共生の典型的な例なのです。そこで褐虫藻のことを共生藻とも呼びます。
イシサンゴ類を調べてみますと、この褐虫藻をもつものと、もたないものがあり、褐虫藻をもつ種は熱帯を中心に、暖かい海に分布し、共生している藻類が光合成ができるような、太陽の光が当たる浅い海にすんでいます。そして褐虫藻をもっているこれらのサンゴは褐虫藻からの栄養を絶たれると、もはや生きてはいけないほどに褐虫藻の共生が不可欠になってしまっています。しかし、褐虫藻をもたないものに比べて、比較にならないほどの成長の速さを獲得しています。そして褐虫藻を共生させているサンゴ達の骨格が主材料となって、暖かい海でサンゴ礁ができるのです。
一方、褐虫藻をもたない仲間は褐虫藻からの養分が期待できないので、自分の生活に必要な養分は全部自分でまかなわなければなりません。この仲間は普通のイソギンチャクのように、触手で動物を捕らえて餌にし、そこからの養分のみで生活しています。そして、一般にこれらの仲間は成長の速度が速くなく、それだけこの世で幅を利かせることができませんし、その骨格がサンゴ礁を造るほどの力もありません。
肉の中に褐虫藻を共生させている仲間は、少し前に書いたように、サンゴ礁を造るのに一役買うことから、造礁サンゴ類と呼ばれ、褐虫藻をもたない仲間は非造礁サンゴ類と呼ばれ、この両者は生活のスタイルが基本的に異なるわけです。造礁サンゴ類は基本的に熱帯起源で、熱帯の海を中心に分布し、太陽の光が当たり、暖かく、きれいな海水の浅い海に生活します。従って、南北両回帰線に挟まれた熱帯から南北に離れるに従って、徐々に分布する種が少なくなってきます。日本国内でもその傾向は顕著で、日本の南端、八重山では造礁サンゴ類が約300種分布していますが、串本では約100種に減少します。そして串本から北に行くと急激に種数は減少し、最も北まで分布する造礁サンゴはキクメイシモドキという種で、造礁サンゴ類の分布の北限は太平洋側では千葉県の安房小湊、日本海側では新潟県の佐渡で、両方とも、北限種はキクメイシモドキです。
一方、非造礁サンゴは特に熱帯起源というわけではありません。そこで世界中あらゆる海にすんでいます。無論赤道直下にもいますし、北極・南極の氷の下にもすんでいます。また、潮が引くと干上がってしまう潮間帯から、水深数千mの深海にまで分布します。このように広く分布し、また造礁サンゴ類と同じくらいの種が知られている非造礁サンゴですが、すぐ前に書いたように、成長する速度が速くないために、その量は多くありません。おそらく全世界のイシサンゴの量の99.9%以上を造礁サンゴが占めることになるでしょう。
ライオンはどこにいるのでしょう。アマゾンのジャングルにはいません。アフリカの草原にすんでいます。ではトラはアフリカの草原にいるのでしょうか。トラはアジアのジャングルにいます。生き物はそれぞれの種に適したすみ場所をもっているのです。そしてそのすみ場所を形作っているのは、熱帯雨林であったり、温帯サバンナだったりするのです。これらの環境は主に気候と地形、それに大型植物によって形作られています。大型植物の光合成によって作られた養分が、そこにすむその他の生き物の栄養となり、その場所の栄養の大部分をまかなっていて、大型植物は栄養の面と、森や草原といった立体構造の面の2つでその場所の他の全ての生き物たちの生活を保障しているのです。しかし、砂漠では大型植物が乏しく、それだけ他の生き物が受ける恩恵も少なくなり、豊富な生き物を養うだけの容量がありません。
このようにジャングルには密林という環境を基礎として生活する多くの生き物の集団が見られます。同じように砂漠や草原でも同じことが言えます。それでそれぞれの環境に特有な生き物を、その環境とともにひっくるめて一つのものと考えることができ、これを生態系と呼びます。ですから陸上には熱帯雨林の生態系や、砂漠の生態系があるわけです。そしてある生態系に属する植物が太陽の光エネルギーから光合成で作った化学エネルギーすなわち栄養は、大部分その生態系の中で使われ、他の生態系に流出する部分は少ないのです。さて、それぞれの生態系にはそれぞれの生態系の環境にあった生き物が属しているのですが、数ある陸上の生態系の中で、内に含む生き物の種の数が最も多い生態系は何でしょう。それは熱帯雨林生態系です。ある範囲に生息する種の数が多いということを近頃は種多様性に富むといいますが、なぜ熱帯雨林は種多様性が高いのでしょうか。一般に環境の種類が多いほど多くの生き物がすむことができるといわれています。スナ砂漠は非常に単純な環境しか生き物に提供できないので、そこに生活する生き物の種多様性が低いと、そのように考えられているのです。そして、陸上の数ある生態系の中で、もっとも複雑で多様な環境を提供している生態系こそ熱帯のジャングルなのです。そこでこのジャングルにすみうる生き物の種の数も多くなり、陸上ではもっとも種多様性の高い生態系となっているのです。
このような陸上の生態系の考え方は海中でも全くそのまま当てはまると考えられています。分かりよい例として、海岸を見てみましょう。砂浜と岩礁海岸とでは、どちらが多種の生き物が見られるでしょう。岩礁海岸の潮間帯は地形的に見て、砂浜の潮間帯に比較すると、問題にならないくらい複雑です。それですから、岩礁海岸潮間帯は非常に多くの種類の環境を、そこにすむ生き物に提供できるのです。そこで、砂浜には少しの種の生き物しか見られないのに対して、岩礁海岸は種多様性に富むのです。では海域でもっとも種多様性に富むのはどこでしょう。それは浅海にあるサンゴ礁なのです。
サンゴ礁海域は海底を覆うイシサンゴ群集と、その間やまわりに生活する多くの生き物が生活していて、一つの特徴的な生態系を作っています。これはサンゴ礁生態系と呼ばれます。サンゴ礁生態系はイシサンゴ類の作る複雑きわまりない構造物が、海中に非常に多様性に富んだ環境を作り出しています。このような多様性がある環境は海中には他にありません。そのことから考えても、サンゴ礁が種多様性に富むことが予想されますが、実際に海域ではもっとも種多様性に富んだ生態系を形成しているのです。そこで、陸域でもっとも種多様性の高い熱帯雨林になぞらえられて、サンゴ礁は「海の熱帯雨林」とも呼ばれるのです。
さて、海の熱帯雨林とも呼ばれるサンゴ礁は、陸の熱帯雨林と基本的に非常に異なった点があります。熱帯雨林では多くの生き物に多様な環境を提供しているのは大型の樹木、すなわち植物です。しかし、サンゴ礁ではその役目は動物である造礁サンゴ類が果たします。さらに陸上の地形は地質年代単位の永い時間によって形成されたり、変化したりします。ところがサンゴ礁では、海底地形までもが、イシサンゴ類の骨格を基礎として、比較的短い時間に形成されてしまうのです。違いはそれだけに留まりません。地球上には多くの動物が生活しています。これらのほとんど全ての動物を養っている栄養は、植物の光合成によってできた養分に頼っているのです。ですからライオンのような肉食の動物でも、ライオンの餌になる動物、さらにその餌になるもの、という風に養分の源をたどれば、必ず植物にたどり着き、植物が種子から、動物の餌として役立つほどに成長するのに必要なものは太陽の光エネルギーを利用した光合成なのです。ですから熱帯雨林の無数の動物はそこに生きている大型樹木をはじめ、光合成色素をもった多くの植物が作りだした養分が命の源なのです。
ところでサンゴ礁ではどうでしょう。サンゴ礁には熱帯雨林の大型樹木に当たる植物がありません。ではサンゴ礁生態系の多様な動物の生命を維持する栄養の源はどこにあるのでしょう。水中は空中と違って、水の層の中に生物を浮かせることができ、そこには植物プランクトンが生存可能です。事実広い大海の真ん中では、命の源の養分を光合成によって生産しているのは海中を浮く植物プランクトンです。ところがご存じのように、サンゴ礁海域は水がきれいなことで有名です。透明度のよい海とは、海水中に浮遊物が少ないことを意味します。砂浜や、河口近くを除くと、海の透明度は大概プランクトンの多さによって決まります。サンゴ礁の海水がどこよりも澄んでいるということは、そこにはほとんどプランクトンがいないということを意味します。すなわち、サンゴ礁の栄養をまかなっている縁の下の力持ちは植物プランクトンではないのです。サンゴ礁でその他に光合成色素をもった植物の存在が考えられるのは一つしかありません。そうです、造礁サンゴの肉の中にすむ褐虫藻です。あの直径100分の1 mmの小さな球が、前にも書いたように、イシサンゴ類の生活を支えているだけでなく、サンゴ礁にすむほとんど全ての動物の栄養の元を作り出し、サンゴ礁生態系を大元で支えている縁の下の力持ちなのです。もう少し見方を変えれば、造礁サンゴ類は骨格を成長させることによって、空間の複雑性を演出し、さらには自分の肉の中に共生する褐虫藻がほとんどの栄養を作り出していることで、造礁サンゴ類は動物でありながら、熱帯雨林の大型樹木と同じような立場にあるといえるでしょう。このことからも、サンゴ礁は海中の熱帯雨林と呼ぶにふさわしいものと思われます。
サンゴ礁生態系はイシサンゴ類の群集と、それに依存して生活する多くの生物から構成されています。そしてこの生態系は環境の複雑さから、地球上の全ての海域の中で種の多様性のもっとも高い場所と考えられています。
生態系は前にも書きましたが、そこにすむ生物が生きるドラマのエネルギーの流れが大部分この生態系の中で循環すると考えられています。ですから、直径2mのテーブルサンゴが一つだけぽつりとあったのではサンゴ礁生態系は形成されません。サンゴ礁生態系が存在するためにはかなり広い一くくりの海域が必要です。しかし一般的に、イシサンゴ類は太陽の光が当たり、海水の温暖できれいな浅海域に広く群集を作り、サンゴ礁性の多くの生き物にその生息の場を提供します。
地球上のサンゴ礁の分布を見てみると、大陸の東側、言い換えれば大洋の西の端によく発達する傾向があります。ユーラシア大陸東岸からインドネシアを経て、オーストラリア大陸東岸(すなわちグレートバリアーリーフ)、南北アメリカ大陸東岸の西インド海域、それにアフリカ大陸東岸から北に連なる紅海・ペルシャ湾の3つがそれです。そして、サンゴ礁の海域にはこれらの地域を含めて、赤道を挟んで緯度で南北30°の範囲に限定されています。
世界地図を広げて、サンゴ礁の北限海域である北緯30°付近を見てみましょう。大西洋西端のメキシコ湾はちょうど北緯30°で合衆国の陸地になってしまい、それより南へフロリダ半島が飛び出ています。インド洋の場合は紅海及びペルシャ湾ともに北緯30°までしか陸地に湾入していません。北緯30°で陸地に阻まれることなく、より北方に開いているのは、太平洋の西端、すなわちユーラシア大陸東岸のみです。しかし、ここでも地形学上のサンゴ礁は、以前に書いたように、北緯30°のトカラ列島までしか見られません。
ところが、ここには世界最大の海流である黒潮が北上していて、サンゴ群集の分布に非常に大きな影響を与えているのです。
太平洋の赤道のすぐ北を東から西へと流れる北赤道海流がフィリピン付近で陸塊にぶつかり、ユーラシア大陸東岸に沿って北上するのが黒潮です。黒潮は日本沿岸に沿って北上し、房総半島で東方沖合に去り、ここまでを黒潮といいます。沖合に去った流れは黒潮続流と呼ばれ、太平洋北部を横断し、北アメリカ西岸に到達し、北米西岸に沿って南下します。これはカリフォルニア海流と呼ばれ、北の冷たい海水をカリフォルニア沿岸に運びます。そしてカリフォルニア海流は赤道の北で西に向きを変え、北赤道海流となります。すなわちこの流れは太平洋の周辺を循環しているのです。そしてその中で、強流となるのは黒潮の部分だけなのです。さらに黒潮は赤道付近から北上するので、大量の温かい海水を北方に運ぶことになるのです。
黒潮は大変大きな流れで、日本の南岸では流軸における海面での流れの速さは時速5~9㎞、2ノット(時速約3.7㎞)以上の強流域は幅55㎞もあります。さらに黒潮の厚み、すなわち黒潮の深さは1,000mにもおよび、流量は毎秒3,000万トン~6,000万トンといわれています。こんな大量の温かい海水が南から川のように流れているので、北のほうまで流れていってもなかなか温度が下がらず、本州の南岸を温かいまま流れていきます。
サンゴ礁のきれいな海水のことは既に書きましたが、黒潮も大変透明度のよい海水です。陸から眺める海の色は大概は空の色を写しています。ですから晴れと曇りとでは海の色が違って見えます。しかし船でこぎ出して、船べりから真下を見ると、本当の海水の色が見えます。海水の色は海水中に浮いている微小な粒子が多いか少ないかによって、その色調が変わります。前にも書きましたが、海岸に近いごく浅い海域を除き、海水中に浮かぶ粒子はプランクトンです。プランクトンが多い海ほど白っぽくかつ緑っぽくなります。一方プランクトンが少なく、透明度がよい海になるに従って、海の色は明るい青から暗い紺へと変わります。そしてほとんどプランクトンのいない透明な海水の色はほとんど黒に見えます。黒潮という名はここから生まれたのです。黒潮はほとんどプランクトンを含まない、言い換えればほとんど栄養のない海水の流れだと言えるでしょう。
ところが海水がほとんど栄養を運ばなくてもかまわない、そんな生態系が海域にはあります。それは先にも書いたように、サンゴ礁生態系なのです。そして、サンゴ礁生態系に必要な、高水温の海水と、水中深くまで日光が充分に差し込むことを保証する透明な海水という、2つの条件が黒潮にはそろっているのです。黒潮流域にサンゴ礁生態系ができるのはむしろ当然の成り行きなのです。
日本沿岸ではほぼ北緯30°までは造礁サンゴ類の群集が見られ、サンゴ礁生態系が形成されるのは予想が付きましょう。さてそれより北の海域ではこれらのサンゴ礁性の生き物たちはどうなるのでしょう。それはそれぞれの種の特性によって決められます。より北の海域でも生活できる能力のある種はより北にも分布することになるのです。
幸いにして、ほぼ100種の造礁サンゴ類が北緯30°の壁を越えて、北緯33°30’の串本の海に生活しているのです。しかも紀伊半島南端の一部の地域では熱帯のサンゴ礁に匹敵するだけの量のイシサンゴが浅海の海底を覆っているのです。串本付近では、この造礁サンゴ類の非常に卓越する海域は串本町の潮岬の東側、砥崎から田子までの約12㎞にわたる海岸線に沿った浅海に広がっています。これだけの規模の造礁サンゴの群落はサンゴ礁生態系を形成する基本的要素としての造礁サンゴの広がりを満足しているようで、ここの造礁サンゴ群落に依存していて生活する多くの生き物が見られ、それらのほとんどの種はより南方のサンゴ礁に見られるサンゴ礁生態系を構成している種と同種なのです。従って、紀伊半島南端ではイシサンゴ類の骨が短期に岩化して礁を造るという地形学上の本当のサンゴ礁はないものの、海底の岩の上は造礁サンゴで覆われ、熱帯にあるようなサンゴ礁生態系が形成されているのです。
さらに、造礁サンゴ類以外の生き物も南から分布をのばし、環境が適応すれば串本に住み着くわけです。広範囲に広がる造礁サンゴの群落周辺はこれらの南方のサンゴ礁の住人には非常に適した住環境となります。彼らは元来もっと暖かい海で造礁サンゴ類に依存して生きてきているからです。彼らにとって串本で気になる最大の関心事は冬季の水温の低下です。そして、この低水温をクリアーした種は串本に住み付くことになるのです。陸上には温帯性の生き物が多く見られるのですが、海中では温帯性の生き物はどうしているのでしょう。温帯性の海中生物は本来造礁サンゴ群落のようなものには縁がありません。まして造礁サンゴは刺胞動物で、刺胞という毒液発射のためのマイクロカプセルをもっています。温帯性の生き物にはこのような危険なものはここちよいわけがありません。そこで温帯性の生き物は串本に広がる造礁サンゴの群落周辺には多く見られず、熱帯性のサンゴ礁生態系の構成員のみが多く住むことになっていると思われます。
ここまでお読みになったら、改めてここで書くこともないでしょうが、串本海域公園の特色をあげてみると、世界最北のサンゴ礁生態系が成立しているということが最大のものです。サンゴ礁生態系は最も種多様性にとむ海域ですから、串本海域公園地区およびその周辺海域でもその例外に漏れず、非常に多くの熱帯性の生き物が暮らしています。そしてその中には日本の分布の北限の記録を持つ種が多く見られ、串本海域公園およびその周辺が特異な環境にあることを伺わせます。さらにこの傾向は最近の地球温暖化現象によって拍車がかかっているようにも感じます。串本海域公園はまさに世界最北の熱帯の海なのです。
そしてこの貴重な我々の財産を上手に活用し、保全し、次世代以後にも大切に残していくことが我々に託された使命なのです。